みなさんこんばんは!ニシイです。
みなさんは、「明日待子」さんという女優さんをご存知でしょうか?
大正9年生まれ、御年97歳。元祖アイドルとして、一世を風靡した方です。
私も最近初めて知り、現在もご健在という事を知ってお写真を拝見しましたが、97歳とは思えないほど髪もお肌もキレイですごいびっくりしました。とても若々しい…。めちゃくちゃカワイイおばあちゃまって感じ。
明日さんは役員の子として生まれ、小さい頃から女優を夢見ていました。
13歳の時に地方巡業に来ていた「ムーラン・ルージュ」の俳優にスカウトされ入団。看板スターとして活躍します。
今日はその歴史ある劇団、ムーラン・ルージュについて調べてみました。
ムーラン・ルージュって?
本来のムーラン・ルージュはパリにあるキャバレー。意味は仏語で「赤い風車」。
建物には実際に赤い風車があります。映画のタイトルにもなっていますね。
フランスはめちゃくちゃ憧れの国です…一度でいいからベルサイユ宮殿を生で見たいわぁ…( ˘ ω ˘ )
戦時中でも営業を続け今日まで公演を続け、現在でもパリで有名な観光スポットになってます。
明日さんがスカウトされたムーラン・ルージュの正式名称は
「ムーラン・ルージュ新宿座」
戦前から戦後にかけ、多くの俳優・女優が活躍しました。
今日は、その歴史を追ってみたいと思います。
旗揚げ
1931年12月31日、もともとは映画館だった「新宿座」において、初めて芝居を公演しました。その劇団の名前が「ムーラン・ルージュ」です。
設立当時は戦前。規制により、民衆がのびのびと創作・公演できる立場になれず、受け入れる側にする風潮が強かった時代です。
一般の商業演劇の盛り上がりがなかったこの時期、国の雰囲気も戦争に向かっていっている暗い時代でした。
そんな中でも風潮に反抗するように、当時人気だった小劇団「カジノ・ウォーリー」、色々な軽演劇に人々は熱中します。
趣味がないとやってけないですもんね…。当時であれば尚更、ある意味命がけの趣味だったと思います…。
カジノ・ウォーリーのスター、榎本健一さん、古川緑波さん、清水金一さんがそんな時代の人々に笑顔を届けていました。
これぞスターですよね。暗い時代の中でも輝いて導いていたという意味であれば(ウワ今私めっちゃカッコイイこと言ったね)
浅草オペラ出身の佐々木千里さんが、これらの演劇旋風に目をつけ、当時大きく発展していた新宿で旗揚げをします。これが「ムーラン・ルージュ」の始まりでした。
当初のメンバーは、文芸部の顧問に当時脚光を浴びていた作家の龍胆寺雄さん、吉行エイスケさん、樽崎勤さん。責任者にカジノ・ウォーリーの文芸部長の島村竜三さん。
立ち上がりは経営難だった為、佐々木さんが競馬で当てたお金を給料にまわしていた逸話もあります。
徐々に確立されたスタイル
1932年12月、ムーランの歌手、高輪芳子さんが心中を図り、それが大きく報道されたことで「ムーラン・ルージュ」の名は大きく知れ渡りました。
その頃、今まで既存の演劇の再演が多かったムーランに、独特のカラーが出始めてきます。
往年のスターによる演劇とははまた違った若い感覚、垢抜けたテイストでの脚本・演出が、学生を始め、多くの市民を惹きつけるようになりました。
その中で、作家・伊馬鵜平(のちの伊馬春部)さんは、壮大な内容ではなく、市民の生活をスケッチし、哀愁と風刺を込めた「ムーラン調」というスタイルの新喜劇を生み出しました。
今でいう「あるあるネタ」みたいなもんなんだろうか…。
多くの俳優さんも出演し、公演も超ハードスケジュールだったそうです。
ムーランのピークは1933年はじめから1935年。
本家のムーラン・ルージュと同様、入り口には赤い風車が回っていて、新宿の名スポットになっていました。
この頃から新宿は山の手を代表する歓楽街だったわけですね。
満員御礼!学生の人気スポット
定員480名の小劇場に、立ち見含めて倍の800名余りの人がムーランの劇を観賞していました。
安い1階席には学生たちで常に満員。
いつのまにか大学で座る席が決まっていて、バラエティ公演に各大学の応援歌が盛り込まれていたそうです。
いつの時代も学生は超元気です。
入場料が安くなる夜8時以降は、毎回評判の良い演劇をやっていたそうで、多くのお客さんがそれを目当てに大行列を作っていました。
その中で、「俳優が大学教授を演じ、風刺を込めた講義をする」という内容で学生たちをさらに惹きつけた「ムーラン哲学」なる名物も存在します。見たい。
ムーランのキャッチフレーズ「空気、めし、ムーラン!」には、人々にとって絶対必要なもの、という劇団の自負を感じられます。
前述でも言いましたが、マジで人間は娯楽・趣味がないとズルズルと生きているだけの悲しいものになってしまいます。
暗い時代にあって尚、この底抜けに明るいムーランのスタイルは、多くの人の救いだったんだなーと思います。
戦争の影、そして閉館
ムーランのピークだった1933~1935年は、社会が戦争に向かっていく暗黒の時代でした。
それにも負けず、若いメンバーが一生懸命に演技し、皆に笑顔を届けることで会場全体が元気なる。言っちゃえば多くの民衆の憂さ晴らしの場だったわけです。
しかし、第ニ次大戦中の1944年、ムーラン・ルージュの名前は敵性語(当時の敵国が生み出した言葉)とされ、「作文館」に改称することに。
さらに1945年、経営権が松竹になるのですが、5月の空襲で劇場が消失。公演不能になってしまいます…。
そのあと、商標登録問題や経営上困難等で結局再興も難しくなり、ストリップショーなど新しいジャンルに押される形で、ついに1951年5月に閉館します。
跡地はどうなっている?
JR新宿駅南東側FLAGSの近く、元「新宿国際会館ビル」がほぼ跡地に該当するそうです。
このビルもまた、成人映画中心の映画館があり、ストリップ劇場から後に喜劇部屋になるホールもありました。
2014年8月~2017年6月にかけ解体・建て替えられ、現在はパチンコ店とドン・キホーテが入っています。
こうして見ると、文化の歴史って結構根強く残ってるなと思います。旅行の際に立ち寄ってみたくなりました。
まとめ
冒頭で紹介した明日待子さんですが、2011年公開のドキュメンタリー映画「ムーラン・ルージュの青春」にて登場しています。この作品はムーラン・ルージュ新宿座誕生80周年を記念した作品。
当時関わった人たちのインタビューや再現舞台を通して描かれたとても貴重な内容になっているとのこと。もちろん明日さんのインタビューも行われています。
旅行で新宿に行くとたくさんの映画館や娯楽があるので、毎回いいな~~!!!!となります。ゴジラもいたし。
それはこのムーラン・ルージュが先駆けとなって、色々な文化を開いてくれたからこそ続いている景色なんだろうなって思います。ドキュメンタリーも見たくなりました。
結構歴史調べるのって楽しいですね。すっごい勉強になります^o^
では!!